国仲御嶽–

国仲御嶽
国仲集落の東方にある御嶽で、伊良部中学校に隣接した植物群落として県指定の文化財となっている大きな森の中にある。植物群落にはフクギ・ヤラブ・リュウキュウマツ、シマヤマヒハツ、トベラ、クチナシ、ゲットウ、サクラランなど、60種程度の植物が生育しており、宮古の中でも最も自然林に近い形で現存している貴重な森である。またこの森はサシバの休息地にもなっている。正面の鳥居を抜けると長い参道があり、その奥に石垣で囲まれた広場に出る。広場にはスラブ作りの祠とその両脇に獅子像が鎮座している。
比屋地御嶽の神である赤良朝金(アカラトモガネ)を祀っているが、比屋地は男神であり、こちらの国仲は女神であるという。



腕山御嶽–

腕山御嶽
長浜集落の東北、腕山と呼ばれる森林の中にある御嶽。祭神は比屋地の神である赤良朝金(アカラトモガネ)。この付近一帯は高地になっており見晴らしがよく、時には八重山の島まで見渡せるという。島内でも祭事が盛んな場であり、豊年祭のときは集落の区長が祝詞を奏上するならわしだという。祝詞「かけまくもかしこき赤良朝金様に恐み恐み申す。赤良朝金様の成し幸給える八束穂・初穂・甘蔗・御芋及五穀を御食御酒に仕奉りて聞仕給え、大代を平良計久、安良計久、幸え給え。無病息災、十日越の夜雨を給え、五穀実らせ村内字内豊年萬作、毎年来る台風は遠方に退散させ、海の世は毎日大漁させて下さるよう、赤良朝金様に御願し、恵み給え撫で給えと恐み恐み毛須。」
ヤーナカ御嶽–

ヤーナカ御嶽
松原集落の道路沿いにあるコンクリート壁に囲まれた御嶽。コンクリートの破風型の祠の中に、香炉が2つほど並んで置かれておりこの御嶽のイビとなっている。唐に往来した船頭主の伝説の主人公、仲間石戸野を祀り、舟の守り神、航海安全の守護神として崇められている。

砂川神社–

砂川神社
アフガマ・クイガマを祀る聖域で古くはカムマザームトゥと呼ばれた。宮古史伝によると、アウガマ(阿武娥麻)・クイガマ(恋娥麻)の姉妹は、1500年頃に平良の仲宗根豊見親が八重山のオヤケ赤峰の乱や与那国の鬼虎討伐に加わった人物である。広場にあるひとかかえほどの石は「アフガマ・クイガマの玉石」とよばれており、大津波で壊滅した旧集落地(砂川元島)から、村を守護する霊石として持ってきた、と伝えられる。1919年砂川神社に改名され、1939年茅葺きの社屋が神社風の木造瓦葺きの社殿に改築された。また1955年木製鳥居が鉄筋コンクリート造になり、1967年に拝殿と神殿も現在の鉄筋コンクリート造りに改築された。また1988年に鳥居や拝殿、神殿など境内の改装が成されている。


ウプムイ御嶽–

ウプムイ御嶽
里御嶽として民間の眼科医師によって建てられた御嶽。1972年木製鳥居とブロックの塀が立つ。1991年木製鳥居老朽化にともないコンクリートで再建。境内北側にマツガ二(マツカマ)を祀る祠がある。そして西側には3つの祭壇がありリゥグ座を祀り、真玉御嶽、ツカサヤ―(漲水御嶽)を迎え、下地の赤名宮、トラヌパ帳の主をそれぞれ祀るという。ウプムイとは大森の意味でこの周囲のガジュマルやクロツグでなる広い森に由来している。




ンギャグス御嶽–

ンギャグス御嶽
この地域の里御嶽で、ナカイサティの祭神及び兄妹神を祀っている御嶽。ンギャグスは兄神(ブザサカン)で、美しい容姿の妹神 (ブナラガン)を守護する、力強い神であった。兄神は妹神の住居の手前に屋敷をかまえ、妹を他の村の男達から守ったという伝承がある。



カーニ里御嶽–

カーニ里御嶽
この地はカーニ里といい、里の守神を崇め祀ったのがこの御嶽の始まりとされる。境内には特に香炉を置かずにクロツグ、フクギ、テリハボク等を背景に低い切石を置き、その周囲を石積みで囲うようなイビの形態をとっている。この地に仲宗根豊見親の側室が住んでいたといわれており、そのためか北、南、東側に緊急用の通路として誂えられた細い参道が今も残る。



嶺間御嶽–

嶺間御嶽
集落のはずれにある見晴らしの良い丘から少し下って入った森の中にある御嶽。『御嶽由来記』によると、ある昔、友利村の背後にあるあまれ山の麓に小さな村があった。しかし突然の津波が押し寄せてこの村の人も家も流されてしまった。ただ一人だけ生き延びた「大津かさ」は山の上に小屋を立てて一人で暮らしていた。その頃、船が難破して東平安名崎の近くの宮渡浜に流れ着いた大和人がいた。彼は人家をたずね歩いてようやく「大津かさ」にめぐり会い、やがて夫婦となった。そして子や孫に恵まれ「あまり村」の村立てがなされたという。夫婦の住んでいた所の嶺間山も、あまり村もどの辺であったか定かでないという。



スキラーズ
マダニアーズ御嶽–

スキラーズマダニアーズ御嶽
小高い丘を登る道の側にある小さな森を抜けるような形で作られた小道にある2つの祠。小道は坂になっており上の拝所には祭神スキラ按司が、下の拝所には祭神マダニアーズが祀られている。双方ともにコンクリート屋根の祠で、イビが2つほど置いてある。マダニアーズはスキラ按司の弟であり、童名マダニ(真多根)という。神名にまつわる伝承はいくつかあり、唐の七人兄弟の男が按司神となったという説、マダニアーズとして、スキラーズの妻であるという説、久貝村がスキラ里という地名にあった時代の按司だという説などいくつかあるが詳細は不明だという。
ウプザー御嶽–
ウプザー御嶽
松原集落のほぼ中央にあり、細い路地のような先にやや開けた空間として御嶽がある。『御嶽由来記』によると砂川親雲上旨屋(ウルカペーチンシオク)が風の影響で中国に漂着した際に得て持ち帰った唐芋(サツマイモ)が島中で広まったため、これを称えたという記録があるが、松原では1597年頃、この砂川親雲上旨屋の一行の船頭だったウプザーガーラが持ち帰って植えたのが芋の伝来の最初だと伝えられていることから、人びとは彼を「ガーラムヤシュウンムヌヌス」として祭り崇めたのがこの御嶽の始まりである。砂川親雲上旨屋も芋の主として西仲宗根の「ンーヌシュウ御嶽」で祀られている。



アガス°ザー御嶽–

アガス°ザー御嶽
松原の集落の東にある御嶽で、ここを境に集落の内と外が区分される。階段を登った小高い所にあり、村の公的な祈願所として機能する。ここのイビはサトウキビの豊作を祈願するものであり、キビのプーズはアガス°ザー(東座)御嶽より願立てされるという。この東座というのは東から登るティダ=太陽を拝む聖なる空間であること、また座としての祭りの重要な直会の儀礼があることから由来している。村の祭具を守護する神もこの御嶽特有の神々であるとされる。

久知名御嶽–

久知名御嶽
久知名御嶽は祭神クチナアズ、ウヤンマの夫婦神を、また脇神ユーヌヌスを祀る。久貝集落の入口付近の四つ辻角の一角を境内とし、コンクリートの宮造りのイビと一対の灯籠が付設されている。

昔、野崎村(いまの久松)に久知名按司という高い知恵を持つ人がいた。盛加ガーを中心に勢力を持っていた与那覇原軍の佐多大人はこの野崎村を攻め滅ぼそうと考えるが、与那覇原軍の使者を久知名按司がご馳走で接待したところ、「野崎村は聞いていたよりも裕福で知恵も高いから、簡単には攻めることができなさそうだ」という話になり、集落は難を逃れることになった。村の人達は久知名按司を集落を救った英雄神であるとして、この御嶽で祀ることになった。
久知名按司の知恵に関係することから、学問に関係ある神として、入学試験などに祈願する。

ピャーズ御嶽–

ピャーズ御嶽
伊良部の東にある牧山のふもとにあるピャーズ(比屋地)御嶽。昔、久米島から兄弟神がやってきて、弟の赤良朝金(アカラトモガネ)は比屋地の神となり、兄は八重山のオモト岳の神となったという。この神アカラトモガネは1370年頃から住民に鍛冶で農具を作る方法を教え、また礼法や農法を伝え、農耕を盛んにした。その人望と徳の高さからのちに伊良部元島の主長となった。ここが伊良部島の集落の発祥地といわれ農業の神、鍛冶の神、島の守護神としてあがめられている。伊良部・仲地・国仲・長浜の四ヶ所に赤良朝金の分神を祀っている。


また脇神としてあがめられている主長豊見氏親は、村一番の力持ちであり、鬼神のような人であった。平良と伊良部の間の海に出没する大鱶(サメのこと)が往来の船を襲い人々が困っていたところ、豊見氏親は先祖代々伝わる刀を持ち小舟で沖に向かい大鱶退治に向かった。大鱶はこれを丸呑みしたが、豊見氏親は腹の中から刀で裂き、大鱶を何とか倒したものの、氏親自身も果ててしまったという。この豊見氏親が使ったとされた小刀は昭和51年3月18日、伊良部町有形文化財に指定されている。
