御嶽における精神性と意義の変遷について

瑚山朋令

御嶽とは恣意的な決定を回避し権力者による強制的統制にも反して、絶対的他者(自然の脅威や不可知な神的存在)による選択を半ば受動的に享受することにより民意の中和を試みるものである。御嶽の目的とは、社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための同時代的手段としてであった。

かつて情報化以前の地域社会においては、統制手段が人間以上の優位によるもの、つまり予め確定された「そういうもの」による能動的了解を得ることこそが非常に重要であった。というのも徹底した制度と認識の合理化がもたらされる以前においては、こうした集合意識の遅延——理性的判断を先伸ばしすることで、やがて向こうからやってくる自然現象や外的要因が「意味あるもの」として付与されることが世界の理解に不可欠だったからである。

ここで重要なのは人間の個別精神と神という絶対的実在との関係性である。ヘーゲルによると信仰者は禁欲的生活や儀式を通して個別的自己を犠牲にして、その地域が持つ共同体の共同精神、いわゆる普遍的精神に同一化しようとする。これは祀られる神が自己犠牲的な地域の功労者であったりすることと無関係ではない。つまり祖霊と神という存在規定の曖昧さからも、神は彼岸にあらず人と同一であることの事実性を公にしないまま表象として指し示すという構造がここにある。そしてキリスト教のような啓示宗教における人間の形での自己意識の語りを得るには代弁者が必要であるが、島の信仰においてそれは神司の役割となっている。

しかしここには第一段階としての自由意志が存在しない。エーリッヒ・フロムがいうように「自由」は、何者かに従属したいという基本的欲求を備えた人間が自ら手放してしまうものである。そして選択可能性の不安定さを受け止め、個として意図的に独立を望んだものだけに備わるものである。

そして第二段階としての自由意志も存在するか定かではない。ユヴァル・ノア・ハラリが指摘するように人は生命科学的アルゴリズム上でただ反応しているだけである、と言えなくもない。

しかしこれは両極端な話ではあるので、もう少しこの中間点について解像度を上げる必要がある。

御嶽の形式に話を戻すと、御嶽は本土における伊勢のような、純化する形式の内に神聖を見出す構造が存在しない。伊勢においては、簡素な、物事の骨子となる基本構成要素と意味解釈的物質を複合したもの=本質によって何らかの具象形状を認知させ、崇高な対象として表意させる。そういった聖なるもの、「白」の情報量は、無数に何かが生まれ出る兆しを認め、時折形を持ち、そして生まれ変わる。御嶽においてこのような感覚を予期し含むものとしての形式は、白という純化のフィールドではなく、そもそも何も存在しないこと=「空性」を帯びる形で存在している。つまり神の所在を認知させるために「側」が崇高であること——人間のスケールを大きく超えたものとして量的質的に人為を尽くすのではなく、あくまで崇高なものが自然それ自体であるかのように、森の中心空間そのものを聖域としている。

社殿等によって永遠なる中心を囲うことで神聖を保つのではなく、もともとある森や木の袂に中心を見出して、無為にその状態を良しとすること、「白」く清浄に洗練させるのではなく、無為自然の関係性の調和を体現していることが御嶽の形式には見て取れる。私は最初に宮古に「無何有」を見て訪れた。無何有とは無作為で、あるがままの自然状態を表す言葉であるが、その景色のもとを辿ればそれは御嶽そのものであった。

ここに「透明」なる御嶽の真髄があると考える。透明であること=transparentは、通り抜け、現れるという由来があるが、「物体が光を通すこと」を意味する。御嶽は大抵薄暗い森の中にあり、日中であれば木々の合間から光が見える。宮古では日々強烈な太陽光が降り注ぐがこれをあえて遮断させ暗がりで仰ぎ見ると、当たり前のように世界を照らしていた太陽が、改めてひとつの存在として目の前に現れ視認できる。光がすでにあったこと、それを自覚できる場所、そこが御嶽という場であり、万物の源=ムトゥと言われるのにも納得がいく。

この透明で「すでにあった」光を再認識することで、意識拡張や選択、認識変化などを経て何も無い空間は有へ転ずるのである。つまり無即有、無から有を見出す行為がここにある。

宮古では人は死してオーミュウへ向かうという。青は死者を繋ぎ、紺碧の大海から白波が打ち寄せるように再生の白へと変ずる。宮古は「現世」を意味するが、その根の部分——地底や海底は「常世」となり、この常世=ニッジャを通じて時折、神の使いはガー(泉)から現れるという。こういった現世と常世を巡る円環的循環の中に人は時間的安定性と死生観の形成をし、その核として御嶽を設置した。この御嶽が自然によって形成されたわずかな空間、例えば手のひらをあわせて包むようにすれば手のひらという面からわずかな3次元の椀が生まれるように、次元転換の空間認識によって無に文脈を付与し、生の根源的価値を肯定するかのような有の発露——空をここに垣間見るのである。

OTHER